ケチな人ってどう思いますか?
あそーくです。
今回はケチを戒めるタイのことわざです。
日本語のことわざの中にケチを戒めるものってちょっと思い浮かばないのですが、
「安もの買いの銭失い」
くらいでしょうか?
といっても、これは結局は自分の得になるようにするための方法を説いているので、厳密な意味でのケチを戒めるのもとはいえません。
どちらかと言うと、節約を奨励することわざの方が多いような気がします。
というわけで、今回は「水牛を殺すなら唐辛子を惜しむな」というタイ語のことわざから、タイ人と日本人のケチについての考え方の違いなどを連々と語っていきたいと思います。
ฆ่าควายอย่าเสียดายพริก
水牛を殺すなら唐辛子を惜しむな
発音:khâa khwaai yàa sǐa daai phrík
ฆ่าควายเสียดายพริก
発音:khâa khwaai sǐa daai phrík
といった使い方もする。
- ฆ่า:殺す、殺害する
- ควาย:水牛
- อย่า:~するな、~しないで
- เสียดาย:勿体ないと思う、惜しいと思う
- พริก:唐辛子
このタイ語のことわざは「水牛を殺すなら唐辛子を惜しむな」とか「水牛を殺して唐辛子を惜しむ」といった風にケチを戒める時に使います。
ケチにもいろいろありまして、どんなケチかというのは、このことわざの背景を説明することが理解の助けになると思います。
昔、タイ人は水牛を屠って、来てくれたお客さん方にご馳走したのです。お客さんとは、有り体に言えば同じ村の他の構成メンバーです。
といっても、いつもというわけではなく、得度式や結婚式、あるいはこどもの髪を剃る儀式(โกนจุก – koon cùk)などなど…特別な時に大事な水牛を潰して、食事を振る舞うという習慣がありました。
こういった特別な儀式の際に、隣人に正しくおもてなしが出来るということが、その家の尊厳を保つことにつながるからです。
しかし、わざわざ水牛一頭を屠って料理を作り、お客さんをもてなすのに、最後の最後の味を整える段階になって、支出を惜しむ気持ちがでてきます。
要するに
「やべーちょっと使いすぎたかも、ちょっと節約しなきゃ今後の生活がやばいかも!」
みたいな思いに囚われてしまうのです。似たような経験に心当たりはありませんか?(笑)
で、こんな思いに囚われたそのタイ人の村人は、結局唐辛子をケチってしまい、出来上がった料理のデキはイマイチ….
せっかくの特別な儀式のハズだったのに残念な料理で、儀式自体も残念な結果に…他の村人の信用もガタ落ち…
とまぁ、こんな結果になりたくなければケチるなよ!
という教えです。
辞書風に説明すると、重要なコトを成すのにケチるべきでない。大きいコトを望んで失うことを恐れたら当然失敗して、何も得られない結果となる。
そして、専ら失うことを恐れお金をもったいないと思うことに囚われていると、その大事なコト自体は、そのせいで失敗してしまう。
といったところでしょうか?
どういう場面で使うかと言うと、大事な儀式のときにはそれ相応の資金を投入(支出)するべき! だから、「水牛を殺すなら唐辛子を惜しむな」
みたいな感じです。
タイ人にとって水牛とは
ここでいうタイ人とは昔ながらのタイ人で、現代社会に染まってしまったタイ人ではありません(笑)。
従来タイ人にとって水牛は、農作業の手伝いや荷物を運んだりと、大事な労働力であります。
また、ことわざにあるように水牛を屠って食肉として活用することもあります。
そんな水牛は伝統的にタイ人にとっては大事な財産であり、水牛泥棒も頻繁に出てくるくらいです。
現在タイではだいたい180万頭くらい飼育されています。
タイには国産のモッツアレラチーズがあり、日本の花畑牧場もタイで、このチーズを販売しているようです。
また、水牛と似た大型家畜動物に牛がいますが、1997年(西暦)頃を境に牛と水牛の数が逆転してしまっています。
これにはいろいろと理由がありますが、一つにはタイ人自体の肉食への嗜好が高まったこと、まー簡単に言うと牛肉の方が美味いらしいということらしいです。
それでも水牛はタイ人には特別な存在で、労働力だけでなく、食肉としても使うこともありますが、戦力外通告をされた水牛でも食べないで、最後まで看取ることも多いそうです。
というのも、水牛に対して、どこか家族的な感覚を持っているので、老いても死ぬまで飼うということになるようです。
それは、水牛を慰労する儀式が多いことや、水牛に名前をつけてたりすることからも分かります。
名前をつけるのは犬に名前をつけるのよりポピュラーだったそうです。
働き者のペットですかね? ペットを食べるのは通常の人間の感覚ではかなり抵抗がありますね。
なので、基本的に自分の家の水牛は自分の所で屠ることは少ないそうです。
それに、水牛・牛にはクワンが宿ると信じられています。
クワン(ขวัญ – khwǎn)というのは日本語にすると魄ですかね? 魂に付随するエネルギー的なモノ?
ちなみに豚とか鳥にはないと考えられてます。
要するに人間に準じた存在と考えられてたようです。
こんな大事な存在の水牛を屠っておいて、卸値でキロあたり50バーツ以下(2018.10)の唐辛子をケチるなんて
「アホなの?」
ってな具合です。
特別な儀式で出される料理とは
では、このことわざの料理はどんなものなんでしょうか?
これは水牛のラープという料理で、最上のものです。
また、比較的簡単に大量に作れるため、儀式のように、大勢を招く場合には最適な料理なんです。
生肉で食する場合もありますが、女子が食べるものには火を通します。
このラープ以外にも宴会用に適した料理はありますが、ラープが特に選ばれるのにはその発音が幸運と同音であるという理由があります。
日本でも、「試験前はカツ」みたいなものもありますが、タイにも同じようなゲンかつぎ的なものもあるんです。
綴りは同じではなく、「ลาบ:料理名」と「ลาภ:幸運、財産」です。発音は「lâap」で声調も同じです。
大昔はラープのような水牛料理を儀式の際に出すということは、必須というわけではなかったんですが、肉食への嗜好が強くなってきてからの風習みたいです。
基本ペットですからね。
人間に準じた存在の水牛ですから、雄の水牛肉は強壮の効果あるという考えもあるようです。
日本人のケチに関する考え方
前述のことを踏まえると、タイ人は「共同体のつながりを壊すようなケチ」をするな! ということが見えてくると思います。
では、我々日本人はどうなのか?
タイ人はタイという国は自然が豊かで食べるものに溢れているということをよく自慢します。
一方で我が先祖たちは、江戸時代に飢饉で餓死するものもでるほど自然環境には恵まれていませんでした。(もちろんタイに比べると)
というわけで、「食べる」ということに異常なまでに執着しています。
「働かざるもの喰うべからす!」
とか、
「これ以上給料下がったら喰えなくなる!」
とか、「食う」ことが基準です。
もちろん「食」は大事ですが、人生の目的が「喰う」ことになってるのはちょっと..あさましすぎるかなと。
日本のテレビもグルメ番組ばっかりなんですよね? 知らんけど(だいぶ前からテレビない)
日本人は餓鬼道を邁進中なんですかねぇ?
と、こんな感じなので、日本社会はケチに対して結構寛容であるのかな? と感じます。
日本語のことわざも「金持ち金使わず」だったり、「一円を笑うものは一円に泣く」なんて、基本的に節約奨励のものばかりです。
節約=ケチというわけではありませんが、日本人の貯蓄率は世界でも類をみないものになっているんでしょうね。
「転ばぬ先の杖」的なことがあるので、いざというときのために慎ましく生活することが美徳であることには、日本人として異論はありません。
が、一旦海外に出るとそれが「ケチ」ととられることもあるので、「日本人はケチだ!」と思われないように気をつけたいものです。
おわり