バンコクはアユタヤからみるとチャオプラヤー川のちょうど出入り口に位置しています。
こういった地理上の理由から、アユタヤ王国の時代のバンコクは、王都の玄関口といった意味を持つ地区でありました。
首都の玄関であれば、そこにはいろいろな役割が生じてくるの当然のことです。
そんな当時のバンコクについて少々解説したいと思いますのでお付き合いください。
それではどうぞ
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税関としてのバンコク
トンブリーとは、サイアム湾への河口と、アユタヤの間に位置しています。
王室から与えられた名前としてはトンブリーシーマハーサムットという呼び方があります。
ここはアユタヤ王国とインド洋の交易の中継地点となった地区でもありました。
このためトンブリーが単なるバンコクの関所でしかなかった時代から税関としての機能はずっと持っていました。
この時代の法律にはトンブリーの税関としての責務と役割が明記してあります。
第一条:トンブリーのナーイプラカノーン(称号)はアユタヤへの海上・陸路どちらも、あるいは船の大小にかかわらず、また徒歩あるいは牛車にかかわらず関所を通るものあれば税を徴収すること。その時は荷10個あたりにつき税を課すこと。
ただし、荷を隠すものある時はこれに二倍の税を徴収し、杖をもって15回の打擲をくわえる。
この税関としてのトンブリーでは税を徴収するだけでなく、往来する人たちは皆、持ち運ぶ商品や持ち物についての種類・個数、そして行き先も報告しなければなりませんでした。
これはアユタヤを出発する際に、事前に関所に届け出をする必要がありました。
というのも、アユタヤ王国から出るには通行許可証をもっている必要があり、そのための手続きだったからです。
このようにして手に入れた許可証は、バンコクの関所を通る際に見せる必要があったのです。
そして、この時に出国税のようなものも支払わなければなりませんでした。
仮にこの手順を踏まなかった場合には、船のオーナーはその場で逮捕されてしまうのです。
このように厳密な検査が実施されるようになったのには理由があるのです。
それはナーラーイ王の時代でした。
マッカサル人の反乱
ナーラーイ王の時代には300人ほどのマッカサル人がアユタヤのクロン・タキアン地区に住んでいました。
マッカサル人とはスラウェシ島、昔はセレベス島とも呼ばれる現在のインドネシアに属する島の南部に居住していた民族です。
マッカサル人(タイ語での発音ではマッカサン)は本当のマッカサル人だけでなく、スラウェシ島から来た人はそう呼ばれたそうです。
このマッカサル人がナーラーイ王の治世に反乱を起こしたのです。
結局は鎮圧され、アユタヤから逃れてきたのですがバンコクの砦より先には逃げることが出来ず、戦闘がバンコクで始まってしまいました。
反乱軍がバンコクより先に逃げられなかった理由は、バンコクの常備軍が前もって鎖で川を封鎖していたため、船でこれより先にいくことが出来なかったからです。
このマッカサル人はイスラム教徒でした。アユタヤはもちろん仏教国ですが、宗教的な原因とは言えないようです。
この反乱には他の地域の権力者の協力があったといわれています。
そして壊滅した反乱軍はトンブリーの街に一般庶民にまじって侵入し、武器はクリスのみだったのにも関わらず、街を混乱状態に陥れようとする作戦に出ました。
クリスとは、マレー世界に伝わる刃がくねくねと曲がっている聖なる短剣のことです。
本物のクリスは海外に持ち去られたとしても、必ず故郷(マレーシア・インドネシア)に戻ってくる。だからお土産として買っても無駄! なんて言われたことありましたが、このクリスは本物ではなかったのでしょうか?(笑)
まぁそれは良いとして、この反乱も統率の取れたヨーロッパの軍の前では刃が立たず、鎮圧されてしまいます。
そして、ナーラーイ王の次の王となるペートラーチャー王の時代にシャムにやってきたアレキサンダー・ハミルトンというスコットランド人の記録には…
「アユタヤにいくためにトンブリーを通過するものは、武器を全て関所に置いていかなければならない」
と書かれています。これは先の反乱のような動乱がアユタヤ王国に発生するのを防ぐためということです。
こういったことから、バンコクの砦では武器の検査がとりわけ厳しかったのです。
まとめ
現在はバンコク自体が王都なので、防衛上の重要拠点というわけではなくなりましたが、河川が重要な交通手段だった時代では、この地区に防衛上の役割が付されるのは必然だったのでしょう。
ナーラーイ王の頃は、お隣のビルマの王朝との間にいろいろとあった時代でした。
相手方の反乱を利用したりと、日本の戦国時代のような謀略が数多く行われていたのかもしれません。
そんなこともあり、バンコクの重要性はますます高まっていきます。
このことはビルマの征服から独立を勝ちとったトンブリー王朝、そしてこれに続く現王朝の拠点が今のバンコクの地を選んだのと無関係ではないと思います。
バンコクの発展の最初のきっかけとなったのがマッカサルの反乱と言うことです。
入り鉄砲に出女の「出女」あまり重要視されてなかったんでしょうかね?
取敢えず、今回はこんな感じで…
こんな話題、興味ある人いるのか?
おわり