【タイの歴史】アユタヤ王朝初代ウートン王、出自を巡る様々な謎とは?

アユタヤはバンコクから気軽に行ける街です。

このアユタヤには1767年にビルマ(ミャンマー)に滅ぼされるまで王朝が栄えていました。

なので街に残る遺跡の多くは無残にも破壊されつくされた跡しか残っていませんが、往時のその規模の巨大さは想像できます。

どーもあそーくです。

このアユタヤ王朝は西暦1351年に始まりました。

日本の室町時代です。なので詳しいことは余りわかっていませんが、アユタヤの初代王ウートンについて現在わかっていることをふか~く掘り下げてみたいと思います。

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ウートン王 ラーマーティボーディー1世とは

 

สมเด็จพระรามาธิบดีที่ ๑とタイ語表記されるウートン王は、正式には「ソムデットプララーマーティボーディシースントーンラブロムボーピット プラプッタジャオユーフアラーマーティボーディ1世 ウートン王」と言います(笑)。

もちろんあまりに長いので以下「ウートン王」とします。

経歴は

略歴
  • 生年月日:仏暦1855年(A.D1312)
  • 王家出身
  • 仏暦1893年(A.D1350)年アユタヤ王国を建国
  • 仏暦1912年(A.D1369)年逝去

と言ったものになっています。だいたい足利尊氏に7、8年遅れて人生を全うした王様です。

その頃の王様なのであまり詳しいことはわかっていません。

分かっていることは、アユタヤの建国が小歴712年の寅年の金曜日、旧暦の第5の月の6日3時54分だということです。

MEMO
小暦とは、西暦638年に始まるタイの暦。仏暦とは異なったもの。

建国が分単位で?? と疑問に思うでしょう?

タイでは街を建設する時にラックムアンという柱を街の中心と成るところに建てるという文化があるので、その時の時間です。

建国という一大イベントです。占星術的に良い日付、良い時間というものが重要なのは言うまでもありません。

バンコクにもラックムアンはもちろんあります。正王宮のすぐ近くです。このラックムアンにまつわる怖い話もありますが、今回は関係ないので省略します。

バンコクのラックムアン(国柱)

仏暦の1893年頃というのはスコータイ王朝の勢力が衰え始めた頃です。

近代と異なり、王朝の支配というのは緩やかなものです。このスコータイ王朝の勢力下にあったアユタヤで建国されたのがウートン王の国です。

このアユタヤをチャオプラヤー川中下流域に住むタイ人を集め沼のほとりにアユタヤを建国したのです。

この地を王国の都と定めたのは

  • 平坦な低地で豊かな土地だった
  • 川の合流地点で、北部スコータイやチェンマイへの交通の要衝だった

といったコトが理由として考えられています。

ウートン王はちょうど19年間統治をした後、小暦731年(仏暦1912年)酉年末尾が1で終わる月(エーカソック)に崩御した ということになっています。

こうしてウートン王によって造られた王宮が現在のアユタヤ県の原型となっています。

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アユタヤのウートン王

 

ウートン王像

アユタヤ王朝の創始者であるウートン王です。もちろん銅像は立ってます。

アユタヤ歴史公園内の一角にある、旧王宮の隣の広場にあります。

像の周りには祭壇が設けられていて、花がたくさん飾られています。

酉年に崩御されたからなのか、鶏の像が沢山おいてあります。

アユタヤの住人にとっては今でも重要人物なのがわかります。

ウートン王はどこから来たのか?

400年以上続くアユタヤ王朝の基礎を作ったウートン王ですが、その功績に比べ、出自に関しては様々な説がありハッキリとは分かっていません。

ここでは現在まで出てきている諸説を紹介したいと思います。

その1 ウートン郡説

スパンブリー県(アユタヤ県の西隣)のウートン郡出身であるという説が長い間通説としての地位を誇っていました。

土地の名前から可能性は高そうですが、現在はその通説の地位からは脱落しているという状況です。

そもそもこの説は、ダムロン王子(ラーマ5世の弟)が唱えた説です。

否定されるようになった経緯は、考古学者がウートン郡で調査を行った結果によるものでした。

調査の結果わかったことは、仏暦16~17世紀のドヴァーラヴァディー王国時代の後半に作られたとみられる美術品が発見されたのです。

ドヴァーラヴァティー王国は、6世紀ごろから11世紀ごろまでに存在したといわれるモン族による王国。議論はあるが、ナコーンパトムを中心としたチャオプラヤー川沿いのモン族による都市国家の連合体であるという見解が現在のところ有力である。ー 引用:Wikipedia

この時代はウートン王がアユタヤに建国した時代からすでに200年以上前に廃れてしまったため、この説は否定されているという事です。

ここでの調査はその後も行われ、フランス・パリ大学の1968年(西暦)の調査によると、ウートン王の時代より300年もの昔には既に廃れたということが発表されました。

その2 北部都市説

ウートン王は北部の都市(ムアン)を統治していた一族出身という説があります。

この説は言い伝えに基づくもので、それによると

この一族は元々はチェンセーン出身で、後にチェンラーイかチェンマイに移動した。

MEMO
チェンセーンもチェンラーイもタイ北部のチェンラーイ県の都市です。

さらにその後、モン族の国であるスワンナプーム王国(現在のスパンブリー県)から攻撃を受け、ガムペーンペット(タイ北部の県)の近くに何世代か住み続ける。

この一族の末裔がウートン王というものです。

まだ物的証拠の出ていないものですが、言い伝えは確かにあるので、今後の発見に期待されます。

その3 中国人説

ウートン王は中国人だったという説もあります。

この説の根拠となる文献はジェレミー・ヴァン・ヴリットという17世紀のオランダの商人の記した書物の中に見られるものです。

この本の中の王統図にウートン王中国人説の記述があるらしいのですが、考古学的資料に基づいた証拠もないため現在ではほとんど顧みられない説となっています。

ただ、このオランダ商人の書物の根拠となった何かが発見されたら面白くなると思います。

その4 ペッチャブリー説

ペッチャブリー出身説というのもあります。

ペッチャブリー県はタイ中部ですが、アユタヤからはだいぶ南になり、バンコクより更に南に位置してます。

この説も同じく17世紀ナラーイ王の時代の書物によるものです。

この書物とは当時のフランスの外交官であったシモン・ド・ラ・ルベールという人の報告書の中に記載されていたものです。

この報告書の中にはアユタヤの言い伝えも記録してあり、この言い伝えが前述のペチャブリー出身の根拠となるものです。

この言い伝えとは

当時のスコータイの王様が大きな仏像を建立し、そのため1年の間出家されたそうです。

王様がいない間も国の統治は行わなければならないので、摂政をおきました。

王様が還俗された後、その摂政はペッチャブリーを治めるように命じられました。

この摂政が後のウートン王だ という言い伝えです。

余りに出来過ぎのような気もしますが、一応現地の言い伝えとして記録されているそうです。

もしかしたら、17世紀には既にウートン王の神格化が進んでいて、その伝説も神話のような形態になっていたのかも知れません。

ちなみにこの仏像はウートン王がアユタヤに都を定める26年前に建立されています。

真偽は定かではありませんが、真実なら面白いと思います。

この仏像はアユタヤ歴史公園の一部である、ワット・パナンチューンの中に鎮座しているルワンポートーと呼ばれている仏像のことです。

その他にもいろいろな説があり、400年の王朝の礎を作った王様にしては謎が多いのです。

そんな昔に思いをはせながらアユタヤ観光でもどうでしょうか?

おわり

参考資料:「พระมหากษัตริย์ไทย : กรุงศรีอยุธยา」

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